子供の頃よりものをかくエネルギーがない理由として考えられるもの

・シンプルにそこにエネルギーを割けない(ほかに使うところがいっぱいある)

・読書量(文学)が減った

・文学作品の摂取量の問題ではなく、素人が趣味で書いた(二次創作とかの)カジュアルな文章に触れていないせい

・10代の頃よりシンプルに感性が渇いた、凝り固まった(含:世界の広さを自覚したゆえに、目の前のこと、自分の発想だけが真実ではないと、何でもいったん保留、保険をかけてしまう大人ならではの慎重さ、狡猾さ)

友人の

「権力嫌いだよね」という言葉と、別の友人の「権力に都合の良くないルール(法律)なんてあるの?」という言葉に対するモヤモヤが消えない。前者なんかもう1ヶ月以上前の会話の中でのひとことだけど。どちらも言われた瞬間は驚いてしまって言葉が出なかった。でも今もまだ、違和感を、発話者に伝えられるくらい、うまく言語化できていない。 確かなのは、権力は好き嫌いで論じて片付くものじゃなく、絶えず監視されなければならず、私たちは監視する側であること。何かあれば干渉するべき立場であること。その権利が完全に権力によって奪われる前に。そして法のひとつの役割は、権力の恣意的な振る舞いを抑止すること。権力に都合の良いもので「あってはいけない」。

あー。あーー。

皹・罅

「ひび」(ヒミの転)
皹:手・足などが寒気におかされ、皮膚の表皮が乾燥して、 小さい亀裂を生じたもの。「あかぎれ」はその甚だしいもの。( 広辞苑
罅:陶器・大地などの表皮にできる細かい割れ目や裂け目。 ひびき。ひびれ。ひびり。亀裂。「茶碗に―が入る」(同上)

 

皮膚の表皮にできるヒビと陶器にできるヒビでは漢字が異なるらしい。

広辞苑によれば、友情や人間関係のヒビは、 皹の方。

人間関係は、陶器ではなく、 皮膚。

 

EGOISTIC

最近たまにお酒を飲んでいる。

ここ数年、飲むと何かしら身体によからぬ事態になる、ということが続いていたもので、余程の機会(忘年会的なイベントとか)でない限り飲むことはなく、したがって自分でお酒にお金を払うようなことがなかった。きっかけは7月のスペイン旅行で、夏休みだし、スペインだし、こんな開放的な土地と気分で飲まないなんてもったいないと、さすがにワインの1杯や2杯はほぼ毎日嗜んでいた。意外と大丈夫なのではないかと感じてしまった私は、帰国翌々日の飲み会から、(国内すなわち日常における)お酒を解禁した。

家の最寄り駅近くのガード下に1軒のバーがある。1年半ほど前に店が変わった。だから、禁酒(緩)前に何度か行った覚えがあるのは前の店だ。マスターよりも、バーテンダーの女性の方が印象に残っている。前職はスタジオミュージシャンで、閉店間際に訪れた時は、バーを畳んだ後はコンサルになることが決まっていると言っていた。
未知のお店をひとりで開拓するというのは、お酒解禁というめでたそうな門出にふさわしいささやかな挑戦のような気がした。駅のトイレでなんとなく口紅を塗り直して気合いを入れた。改札を抜けて、自宅と逆方向の出口へ向かった。
カランと扉を開けたら大抵のバーがそうである(だろう)ように店内は薄暗い。19時を過ぎたくらいだったからか、カウンターにもテーブル席にも客はいない。カウンターの中でひとり、太身の男性がタバコをふかしている。あれがマスターなんだろうな、と考えると同時に、「もうやってますか?」と、久々のバーにドギマギしているのを誤魔化すように声に出していた。誤魔化したのはマスターに対してではなく、自分に対してだったと思う。
前職が寿司屋の職人だというマスターの出すお通しはいかにも身体にやさしい滋味深い和のつまみだった。オリジナルカクテルにしても、材料に枝豆やらピーマンやら、とにかく常に意匠を凝らし、模索しているようだ。その日は景気よくチーズ焼きを食べながら5杯ほどちゃんぽんしている間に、たしか3組ほどの客がきた。みんな常連のようだった。マスターのリードで、2,3人の人と話した。そうか、バーというか飲み屋にはそういう文化があるんだったな、なんて思いながら良い気分で帰宅した。しばらくぶりの開放感に、また来ようと思った。

それで後日、何が契機かわすれてしまったが、こんなことを思った。
あの空間で、私はまだ何者でもない。それが心地よかったのだと。

やっかいなことに、人並みにたしかな何者かでありたい願うと同時に、何者でもない自分も求めている。過去と過去の選択への疑念を拭い去れないまま今を過ごしている。きっと人生の選択に正解不正解などないし、幸不幸の答え合わせは未来にしかできないのだと理屈の上ではわかっていても、自分が積み上げてきた過去で形成された今の自分が未来へ連続していくという事実そのものに打ちのめされそうになるときがある。だから、つながりや拘束力の弱い空間、私という存在が見定められていない空間が心地良いのだ。もちろんそれは時間の問題であり、何度も通いつめるうちには、あの空間の中でも私の「役割」というものが形作られてゆくのかもしれない。けれど、今はまだない。何も求められていない。私はそこに気楽さを感じていたのだと思う。

と、ここまで整理して、やっぱり私は他者が自分に求める「役割」に対して敏感すぎるんだなと考えた。書いて、言語化してみて、はじめてそれが見えた。本当にありがたいことに私の辛気くさくてすぐ迷宮入りする心の話につきあってくれる友人が何人かいるけれど、彼らと話すたび、周囲の意思や望みに沿えなければ「自分は」無価値なのだと、無意識に思っている自分に出会う。周りの人間にそれをあてはめることはない。また、優越感を求めているわけでもない。ただ自分は人よりなにかしら抜きん出ているとか意向に沿うことが上手いとかいうことがなければ、周囲と同じ地平に立てない、と思ってしまうのだ。それはつまり、自分の好き放題な自分のままでは疎まれるとすら思っていて、結局、誰よりも「役割」に執着している、ということなのだろう。不思議だ。自分が人に求めないことを、自分は人に求められていると思ってしまうということか。
でも理屈じゃない。きっかけを考えていくと思い当たるのは幼少期の経験や家族の中でのあり方だ。心療内科では過剰適応と判断されるような、そんな幼少期だ。「周囲にとって都合の良い子でなければいけない。自分の好みや希望なんて、許されるどころか、容赦なく否定されてしまう。」そんな強迫観念はあまりに根深く、もはや私の輪郭の一部となっている。

こうした思考は日常的なやりとりでも、言葉の端々に現れるらしい。たまに「生きにくそう」と言われる所以は、こういうところにあると思う。彼らの指摘どおり、たぶん私は、シンプルなことを複雑に考えて、非本質的な点に足を取られるという点で、自我の問題として、生きることに難しさを見いだしやすいと思う。我ながら、やっかいだ。本当に、難儀なことだ。

practice

家電量販店を出たのは閉店時間すれすれだったから、22時手前だろう。
こんな時間でも駅前のスターバックスには空席はひとつしかないのだから、都会というのは不思議だ。鬱陶しかった梅雨も明け猛暑への階段を着実に駆け上がっている今、夜といえどテラス席は快適とは言いがたいだろうに、それでもひとりの女性がゆっくりと腰掛けくつろいでいる。
この店の何が斯様に人を引き寄せるのだろう。私の職場は都内有数の繁華街で、夜ともなれば「ギラついた」人々のために存在するような場所にあるが、そんな「意識高い」街では、私の知る限りで、半径1km以内、徒歩10分圏内に4店舗のスターバックスがある。駅構内に1店舗、駅直結のビルの2フロアに別々に2店舗、そしてそのビルの目と鼻の先に1店舗。
最近は自宅の最寄り駅でも、改札を出て1店舗、3分歩いて1店舗、というような具合だ。
最寄り駅はともかく、職場付近については、ここまでくるともはやホラー的だなと思わなくもない。これほどに「都会らしさ」に囲まれていると、なんだか得体の知れない敗北感がある。それが誰の、何に対する敗北なのかは、うまく言葉にならない。田舎から出てきた私の、都会の景色に対する心の敗北なのか、都会が絵画的なまでに都会らしくあることの、生活が感じられないことの敗北なのか、あるいはそれらは同一のものか。
「都会らしさ」という言葉を突然使ったが、そもそもそれはどういうものなのか。私の心が勝手に感じているにすぎないのは確かだけれども、シアトル系コーヒーショップチェーンが複数店舗あるような街の様相を「都会的」と形容したくなるのは、どういうことだろう。
そんなことを考えながら、駅に近く、デカフェを頼めるから、という理由でこの店に入って、買ったばかりのPOMERAで文章を打っている。私も結局この光景を構成するひとりなわけだ。明日は水曜日。

 

というわけで衝動買いしたポメラを一刻も早く試してみたくて、その日のうちに日記がてら書いてみた形ばかりの文章です。これでおよそデフォルトのフォントサイズ(24dotというらしい)でスクロールせずに済む1ページ分です。細かな便利機能は使いながら覚えていこうと思います。