EGOISTIC

最近たまにお酒を飲んでいる。

ここ数年、飲むと何かしら身体によからぬ事態になる、ということが続いていたもので、余程の機会(忘年会的なイベントとか)でない限り飲むことはなく、したがって自分でお酒にお金を払うようなことがなかった。きっかけは7月のスペイン旅行で、夏休みだし、スペインだし、こんな開放的な土地と気分で飲まないなんてもったいないと、さすがにワインの1杯や2杯はほぼ毎日嗜んでいた。意外と大丈夫なのではないかと感じてしまった私は、帰国翌々日の飲み会から、(国内すなわち日常における)お酒を解禁した。

家の最寄り駅近くのガード下に1軒のバーがある。1年半ほど前に店が変わった。だから、禁酒(緩)前に何度か行った覚えがあるのは前の店だ。マスターよりも、バーテンダーの女性の方が印象に残っている。前職はスタジオミュージシャンで、閉店間際に訪れた時は、バーを畳んだ後はコンサルになることが決まっていると言っていた。
未知のお店をひとりで開拓するというのは、お酒解禁というめでたそうな門出にふさわしいささやかな挑戦のような気がした。駅のトイレでなんとなく口紅を塗り直して気合いを入れた。改札を抜けて、自宅と逆方向の出口へ向かった。
カランと扉を開けたら大抵のバーがそうである(だろう)ように店内は薄暗い。19時を過ぎたくらいだったからか、カウンターにもテーブル席にも客はいない。カウンターの中でひとり、太身の男性がタバコをふかしている。あれがマスターなんだろうな、と考えると同時に、「もうやってますか?」と、久々のバーにドギマギしているのを誤魔化すように声に出していた。誤魔化したのはマスターに対してではなく、自分に対してだったと思う。
前職が寿司屋の職人だというマスターの出すお通しはいかにも身体にやさしい滋味深い和のつまみだった。オリジナルカクテルにしても、材料に枝豆やらピーマンやら、とにかく常に意匠を凝らし、模索しているようだ。その日は景気よくチーズ焼きを食べながら5杯ほどちゃんぽんしている間に、たしか3組ほどの客がきた。みんな常連のようだった。マスターのリードで、2,3人の人と話した。そうか、バーというか飲み屋にはそういう文化があるんだったな、なんて思いながら良い気分で帰宅した。しばらくぶりの開放感に、また来ようと思った。

それで後日、何が契機かわすれてしまったが、こんなことを思った。
あの空間で、私はまだ何者でもない。それが心地よかったのだと。

やっかいなことに、人並みにたしかな何者かでありたい願うと同時に、何者でもない自分も求めている。過去と過去の選択への疑念を拭い去れないまま今を過ごしている。きっと人生の選択に正解不正解などないし、幸不幸の答え合わせは未来にしかできないのだと理屈の上ではわかっていても、自分が積み上げてきた過去で形成された今の自分が未来へ連続していくという事実そのものに打ちのめされそうになるときがある。だから、つながりや拘束力の弱い空間、私という存在が見定められていない空間が心地良いのだ。もちろんそれは時間の問題であり、何度も通いつめるうちには、あの空間の中でも私の「役割」というものが形作られてゆくのかもしれない。けれど、今はまだない。何も求められていない。私はそこに気楽さを感じていたのだと思う。

と、ここまで整理して、やっぱり私は他者が自分に求める「役割」に対して敏感すぎるんだなと考えた。書いて、言語化してみて、はじめてそれが見えた。本当にありがたいことに私の辛気くさくてすぐ迷宮入りする心の話につきあってくれる友人が何人かいるけれど、彼らと話すたび、周囲の意思や望みに沿えなければ「自分は」無価値なのだと、無意識に思っている自分に出会う。周りの人間にそれをあてはめることはない。また、優越感を求めているわけでもない。ただ自分は人よりなにかしら抜きん出ているとか意向に沿うことが上手いとかいうことがなければ、周囲と同じ地平に立てない、と思ってしまうのだ。それはつまり、自分の好き放題な自分のままでは疎まれるとすら思っていて、結局、誰よりも「役割」に執着している、ということなのだろう。不思議だ。自分が人に求めないことを、自分は人に求められていると思ってしまうということか。
でも理屈じゃない。きっかけを考えていくと思い当たるのは幼少期の経験や家族の中でのあり方だ。心療内科では過剰適応と判断されるような、そんな幼少期だ。「周囲にとって都合の良い子でなければいけない。自分の好みや希望なんて、許されるどころか、容赦なく否定されてしまう。」そんな強迫観念はあまりに根深く、もはや私の輪郭の一部となっている。

こうした思考は日常的なやりとりでも、言葉の端々に現れるらしい。たまに「生きにくそう」と言われる所以は、こういうところにあると思う。彼らの指摘どおり、たぶん私は、シンプルなことを複雑に考えて、非本質的な点に足を取られるという点で、自我の問題として、生きることに難しさを見いだしやすいと思う。我ながら、やっかいだ。本当に、難儀なことだ。